内供が鼻を持てあました理由は二つある。――一つは実際的に、鼻の長いのが不便だったからである。第一飯を食う時にも独りでは食えない。独りで食えば、鼻の先が鋺《かなまり》の中の飯へとどいてしまう。そこで内供は弟子の一人を膳の向うへ坐らせて、飯を食う間中、広さ一寸長さ二尺ばかりの板で、鼻を持上げていて貰う事にした。しかしこうして飯を食うと云う事は、持上げている弟子にとっても、持上げられている内供にとっても、決して容易な事ではない。一度この弟子の代りをした中童子《ちゅうどうじ》が、嚏《くさめ》をした拍子に手がふるえて、鼻を粥《かゆ》の中へ落した話は、当時京都まで喧伝《けんでん》された。――けれどもこれは内供にとって、決して鼻を苦に病んだ重《おも》な理由ではない。内供は実にこの鼻によって傷つけられる自尊心のために苦しんだのである。
池の尾の町の者は、こう云う鼻をしている禅智内供のために、内供の俗でない事を仕合せだと云った。あの鼻では誰も妻になる女があるまいと思ったからである。中にはまた、あの鼻だから出家《しゅっけ》したのだろうと批評する者さえあった。しかし内供は、自分が僧であるために、幾分でもこの鼻に煩《わずらわ》される事が少くなったと思っていない。内供の自尊心は、妻帯と云うような結果的な事実に左右されるためには、余りにデリケイトに出来ていたのである。そこで内供は、積極的にも消極的にも、この自尊心の毀損《きそん》を恢復《かいふく》しようと試みた。
第一に内供の考えたのは、この長い鼻を実際以上に短く見せる方法である。これは人のいない時に、鏡へ向って、いろいろな角度から顔を映しながら、熱心に工夫《くふう》を凝《こ》らして見た。どうかすると、顔の位置を換えるだけでは、安心が出来なくなって、頬杖《ほおづえ》をついたり頤《あご》の先へ指をあてがったりして、根気よく鏡を覗いて見る事もあった。しかし自分でも満足するほど、鼻が短く見えた事は、これまでにただの一度もない。時によると、苦心すればするほど、かえって長く見えるような気さえした。内供は、こう云う時には、鏡を箱へしまいながら、今更のようにため息をついて、不承不承にまた元の経机《きょうづくえ》へ、観音経《かんのんぎょう》をよみに帰るのである。
それからまた内供は、絶えず人の鼻を気にしていた。池の尾の寺は、僧供講説《そうぐこうせつ》などのしばしば行われる寺である。寺の内には、僧坊が隙なく建て続いて、湯屋では寺の僧が日毎に湯を沸かしている。従ってここへ出入する僧俗の類《たぐい》も甚だ多い。内供はこう云う人々の顔を根気よく物色した。一人でも自分のような鼻のある人間を見つけて、安心がしたかったからである。だから内供の眼には、紺の水干《すいかん》も白の帷子《かたびら》もはいらない。まして柑子色《こうじいろ》の帽子や、椎鈍《しいにび》の法衣《ころも》なぞは、見慣れているだけに、有れども無きが如くである。内供は人を見ずに、ただ、鼻を見た。――しかし鍵鼻《かぎばな》はあっても、内供のような鼻は一つも見当らない。その見当らない事が度重なるに従って、内供の心は次第にまた不快になった。内供が人と話しながら、思わずぶらりと下っている鼻の先をつまんで見て、年甲斐《としがい》もなく顔を赤らめたのは、全くこの不快に動かされての所為《しょい》である。
最後に、内供は、内典外典《ないてんげてん》の中に、自分と同じような鼻のある人物を見出して、せめても幾分の心やりにしようとさえ思った事がある。けれども、目連《もくれん》や、舎利弗《しゃりほつ》の鼻が長かったとは、どの経文にも書いてない。勿論|竜樹《りゅうじゅ》や馬鳴《めみょう》も、人並の鼻を備えた菩薩《ぼさつ》である。内供は、震旦《しんたん》の話の序《ついで》に蜀漢《しょくかん》の劉玄徳《りゅうげんとく》の耳が長かったと云う事を聞いた時に、それが鼻だったら、どのくらい自分は心細くなくなるだろうと思った。
内供がこう云う消極的な苦心をしながらも、一方ではまた、積極的に鼻の短くなる方法を試みた事は、わざわざここに云うまでもない。内供はこの方面でもほとんど出来るだけの事をした。烏瓜《からすうり》を煎《せん》じて飲んで見た事もある。鼠の尿《いばり》を鼻へなすって見た事もある。しかし何をどうしても、鼻は依然として、五六寸の長さをぶらりと唇の上にぶら下げているではないか。
所がある年の秋、内供の用を兼ねて、京へ上った弟子《でし》の僧が、知己《しるべ》の医者から長い鼻を短くする法を教わって来た。その医者と云うのは、もと震旦《しんたん》から渡って来た男で、当時は長楽寺《ちょうらくじ》の供僧《ぐそう》になっていたのである。
内供は、いつものように、鼻などは気にかけないと云う風をして、わざとその法もすぐにやって見ようとは云わずにいた。そうして一方では、気軽な口調で、食事の度毎に、弟子の手数をかけるのが、心苦しいと云うような事を云った。内心では勿論弟子の僧が、自分を説伏《ときふ》せて、この法を試みさせるのを待っていたのである。弟子の僧にも、内供のこの策略がわからない筈はない。しかしそれに対する反感よりは、内供のそう云う策略をとる心もちの方が、より強くこの弟子の僧の同情を動かしたのであろう。弟子の僧は、内供の予期通り、口を極めて、この法を試みる事を勧め出した。そうして、内供自身もまた、その予期通り、結局この熱心な勧告に聴従《ちょうじゅう》する事になった。
その法と云うのは、ただ、湯で鼻を茹《ゆ》でて、その鼻を人に踏ませると云う、極めて簡単なものであった。
湯は寺の湯屋で、毎日沸かしている。そこで弟子の僧は、指も入れられないような熱い湯を、すぐに提《ひさげ》に入れて、湯屋から汲んで来た。しかしじかにこの提へ鼻を入れるとなると、湯気に吹かれて顔を火傷《やけど》する惧《おそれ》がある。そこで折敷《おしき》へ穴をあけて、それを提の蓋《ふた》にして、その穴から鼻を湯の中へ入れる事にした。鼻だけはこの熱い湯の中へ浸《ひた》しても、少しも熱くないのである。しばらくすると弟子の僧が云った。
–―もう茹《ゆだ》った時分でござろう。
内供は苦笑した。これだけ聞いたのでは、誰も鼻の話とは気がつかないだろうと思ったからである。鼻は熱湯に蒸《む》されて、蚤《のみ》の食ったようにむず痒《がゆ》い。
弟子の僧は、内供が折敷の穴から鼻をぬくと、そのまだ湯気の立っている鼻を、両足に力を入れながら、踏みはじめた。内供は横になって、鼻を床板の上へのばしながら、弟子の僧の足が上下《うえした》に動くのを眼の前に見ているのである。弟子の僧は、時々気の毒そうな顔をして、内供の禿《は》げ頭を見下しながら、こんな事を云った。
–―痛うはござらぬかな。医師は責《せ》めて踏めと申したで。じゃが、痛うはござらぬかな。
内供は首を振って、痛くないと云う意味を示そうとした。所が鼻を踏まれているので思うように首が動かない。そこで、上眼《うわめ》を使って、弟子の僧の足に皹《あかぎれ》のきれているのを眺めながら、腹を立てたような声で、
–―痛うはないて。
と答えた。実際鼻はむず痒い所を踏まれるので、痛いよりもかえって気もちのいいくらいだったのである。
しばらく踏んでいると、やがて、粟粒《あわつぶ》のようなものが、鼻へ出来はじめた。云わば毛をむしった小鳥をそっくり丸炙《まるやき》にしたような形である。弟子の僧はこれを見ると、足を止めて独り言のようにこう云った。
–―これを鑷子《けぬき》でぬけと申す事でござった。
内供は、不足らしく頬をふくらせて、黙って弟子の僧のするなりに任せて置いた。勿論弟子の僧の親切がわからない訳ではない。それは分っても、自分の鼻をまるで物品のように取扱うのが、不愉快に思われたからである。内供は、信用しない医者の手術をうける患者のような顔をして、不承不承に弟子の僧が、鼻の毛穴から鑷子《けぬき》で脂《あぶら》をとるのを眺めていた。脂は、鳥の羽の茎《くき》のような形をして、四分ばかりの長さにぬけるのである。
やがてこれが一通りすむと、弟子の僧は、ほっと一息ついたような顔をして、
–―もう一度、これを茹でればようござる。
と云った。
内供はやはり、八の字をよせたまま不服らしい顔をして、弟子の僧の云うなりになっていた。
さて二度目に茹でた鼻を出して見ると、成程、いつになく短くなっている。これではあたりまえの鍵鼻と大した変りはない。内供はその短くなった鼻を撫《な》でながら、弟子の僧の出してくれる鏡を、極《きま》りが悪るそうにおずおず覗《のぞ》いて見た。
鼻は――あの顋《あご》の下まで下っていた鼻は、ほとんど嘘のように萎縮して、今は僅《わずか》に上唇の上で意気地なく残喘《ざんぜん》を保っている。所々まだらに赤くなっているのは、恐らく踏まれた時の痕《あと》であろう。こうなれば、もう誰も哂《わら》うものはないにちがいない。――鏡の中にある内供の顔は、鏡の外にある内供の顔を見て、満足そうに眼をしばたたいた。
しかし、その日はまだ一日、鼻がまた長くなりはしないかと云う不安があった。そこで内供は誦経《ずぎょう》する時にも、食事をする時にも、暇さえあれば手を出して、そっと鼻の先にさわって見た。が、鼻は行儀《ぎょうぎ》よく唇の上に納まっているだけで、格別それより下へぶら下って来る景色もない。それから一晩寝てあくる日早く眼がさめると内供はまず、第一に、自分の鼻を撫でて見た。鼻は依然として短い。内供はそこで、幾年にもなく、法華経《ほけきょう》書写の功を積んだ時のような、のびのびした気分になった。
所が二三日たつ中に、内供は意外な事実を発見した。それは折から、用事があって、池の尾の寺を訪れた侍《さむらい》が、前よりも一層|可笑《おか》しそうな顔をして、話も碌々《ろくろく》せずに、じろじろ内供の鼻ばかり眺めていた事である。それのみならず、かつて、内供の鼻を粥《かゆ》の中へ落した事のある中童子《ちゅうどうじ》なぞは、講堂の外で内供と行きちがった時に、始めは、下を向いて可笑《おか》しさをこらえていたが、とうとうこらえ兼ねたと見えて、一度にふっと吹き出してしまった。用を云いつかった下法師《しもほうし》たちが、面と向っている間だけは、慎《つつし》んで聞いていても、内供が後《うしろ》さえ向けば、すぐにくすくす笑い出したのは、一度や二度の事ではない。
内供ははじめ、これを自分の顔がわりがしたせいだと解釈した。しかしどうもこの解釈だけでは十分に説明がつかないようである。――勿論、中童子や下法師が哂《わら》う原因は、そこにあるのにちがいない。けれども同じ哂うにしても、鼻の長かった昔とは、哂うのにどことなく容子《ようす》がちがう。見慣れた長い鼻より、見慣れない短い鼻の方が滑稽《こっけい》に見えると云えば、それまでである。が、そこにはまだ何かあるらしい。
–―前にはあのようにつけつけとは哂わなんだて。
内供は、誦《ず》しかけた経文をやめて、禿《は》げ頭を傾けながら、時々こう呟《つぶや》く事があった。愛すべき内供は、そう云う時になると、必ずぼんやり、傍《かたわら》にかけた普賢《ふげん》の画像を眺めながら、鼻の長かった四五日前の事を憶《おも》い出して、「今はむげにいやしくなりさがれる人の、さかえたる昔をしのぶがごとく」ふさぎこんでしまうのである。――内供には、遺憾《いかん》ながらこの問に答を与える明が欠けていた。
–―人間の心には互に矛盾《むじゅん》した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥《おとしい》れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。
そこで内供は日毎に機嫌《きげん》が悪くなった。二言目には、誰でも意地悪く叱《しか》りつける。しまいには鼻の療治《りょうじ》をしたあの弟子の僧でさえ、「内供は法慳貪《ほうけんどん》の罪を受けられるぞ」と陰口をきくほどになった。殊に内供を怒らせたのは、例の悪戯《いたずら》な中童子である。ある日、けたたましく犬の吠《ほ》える声がするので、内供が何気なく外へ出て見ると、中童子は、二尺ばかりの木の片《きれ》をふりまわして、毛の長い、痩《や》せた尨犬《むくいぬ》を逐《お》いまわしている。それもただ、逐いまわしているのではない。「鼻を打たれまい。それ、鼻を打たれまい」と囃《はや》しながら、逐いまわしているのである。内供は、中童子の手からその木の片をひったくって、したたかその顔を打った。木の片は以前の鼻持上《はなもた》げの木だったのである。
内供はなまじいに、鼻の短くなったのが、かえって恨《うら》めしくなった。
するとある夜の事である。日が暮れてから急に風が出たと見えて、塔の風鐸《ふうたく》の鳴る音が、うるさいほど枕に通《かよ》って来た。その上、寒さもめっきり加わったので、老年の内供は寝つこうとしても寝つかれない。そこで床の中でまじまじしていると、ふと鼻がいつになく、むず痒《かゆ》いのに気がついた。手をあてて見ると少し水気《すいき》が来たようにむくんでいる。どうやらそこだけ、熱さえもあるらしい。
–―無理に短うしたで、病が起ったのかも知れぬ。
内供は、仏前に香花《こうげ》を供《そな》えるような恭《うやうや》しい手つきで、鼻を抑えながら、こう呟いた。
翌朝、内供がいつものように早く眼をさまして見ると、寺内の銀杏《いちょう》や橡《とち》が一晩の中に葉を落したので、庭は黄金《きん》を敷いたように明るい。塔の屋根には霜が下りているせいであろう。まだうすい朝日に、九輪《くりん》がまばゆく光っている。禅智内供は、蔀《しとみ》を上げた縁に立って、深く息をすいこんだ。
ほとんど、忘れようとしていたある感覚が、再び内供に帰って来たのはこの時である。
内供は慌てて鼻へ手をやった。手にさわるものは、昨夜《ゆうべ》の短い鼻ではない。上唇の上から顋《あご》の下まで、五六寸あまりもぶら下っている、昔の長い鼻である。内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。
–―こうなれば、もう誰も哂《わら》うものはないにちがいない。
内供は心の中でこう自分に囁《ささや》いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。
芋粥
元慶《ぐわんぎやう》の末か、仁和《にんな》の始にあつた話であらう。どちらにしても時代はさして、この話に大事な役を、勤めてゐない。読者は唯、平安朝と云ふ、遠い昔が背景になつてゐると云ふ事を、知つてさへゐてくれれば、よいのである。――その頃、摂政《せつしやう》藤原|基経《もとつね》に仕へてゐる侍《さむらひ》の中に、某《なにがし》と云ふ五位があつた。
これも、某と書かずに、何の誰と、ちやんと姓名を明にしたいのであるが、生憎《あいにく》旧記には、それが伝はつてゐない。恐らくは、実際、伝はる資格がない程、平凡な男だつたのであらう。一体旧記の著者などと云ふ者は、平凡な人間や話に、余り興味を持たなかつたらしい。この点で、彼等と、日本の自然派の作家とは、大分ちがふ。王朝時代の小説家は、存外、閑人《ひまじん》でない。――兎に角、摂政藤原基経に仕へてゐる侍の中に、某と云ふ五位があつた。これが、この話の主人公である。
五位は、風采の甚《はなはだ》揚《あが》らない男であつた。第一背が低い。それから赤鼻で、眼尻が下つてゐる。口髭は勿論薄い。頬が、こけてゐるから、頤《あご》が、人並はづれて、細く見える。唇は――一々、数へ立ててゐれば、際限はない。我五位の外貌はそれ程、非凡に、だらしなく、出来上つてゐたのである。
この男が、何時《いつ》、どうして、基経に仕へるやうになつたのか、それは誰も知つてゐない。が、余程以前から、同じやうな色の褪《さ》めた水干《すゐかん》に、同じやうな萎々《なえなえ》した烏帽子《ゑぼし》をかけて、同じやうな役目を、飽きずに、毎日、繰返してゐる事だけは、確である。その結果であらう、今では、誰が見ても、この男に若い時があつたとは思はれない。(五位は四十を越してゐた。)その代り、生れた時から、あの通り寒むさうな赤鼻と、形ばかりの口髭とを、朱雀大路《すざくおほぢ》の衢風《ちまたかぜ》に、吹かせてゐたと云ふ気がする。上《かみ》は主人の基経から、下《しも》は牛飼の童児まで、無意識ながら、悉《ことごとく》さう信じて疑ふ者がない。
かう云ふ風采を具へた男が、周囲から受ける待遇は、恐らく書くまでもないことであらう。侍所《さぶらひどころ》にゐる連中は、五位に対して、殆ど蠅《はへ》程の注意も払はない。有位《うゐ》無位《むゐ》、併せて二十人に近い下役さへ、彼の出入りには、不思議な位、冷淡を極めてゐる。五位が何か云ひつけても、決して彼等同志の雑談をやめた事はない。彼等にとつては、空気の存在が見えないやうに、五位の存在も、眼を遮《さへぎ》らないのであらう。下役でさへさうだとすれば、別当とか、侍所の司《つかさ》とか云ふ上役たちが頭から彼を相手にしないのは、寧《むし》ろ自然の数《すう》である。彼等は、五位に対すると、殆ど、子供らしい無意味な悪意を、冷然とした表情の後に隠して、何を云ふのでも、手真似だけで用を足した。人間に、言語があるのは、偶然ではない。従つて、彼等も手真似では用を弁じない事が、時々ある。が、彼等は、それを全然五位の悟性に、欠陥があるからだと、思つてゐるらしい。そこで彼等は用が足りないと、この男の歪んだ揉《もみ》烏帽子の先から、切れかかつた藁草履《わらざうり》の尻まで、万遍なく見上げたり、見下したりして、それから、鼻で哂《わら》ひながら、急に後を向いてしまふ。それでも、五位は、腹を立てた事がない。彼は、一切の不正を、不正として感じない程、意気地のない、臆病な人間だつたのである。
所が、同僚の侍たちになると、進んで、彼を飜弄《ほんろう》しようとした。年かさの同僚が、彼れの振はない風采を材料にして、古い洒落《しやれ》を聞かせようとする如く、年下の同僚も、亦それを機会にして、所謂《いはゆる》興言利口《きようげんりこう》の練習をしようとしたからである。彼等は、この五位の面前で、その鼻と口髭と、烏帽子と水干とを、品隲《ひんしつ》して飽きる事を知らなかつた。そればかりではない。彼が五六年前に別れたうけ唇《くち》の女房と、その女房と関係があつたと云ふ酒のみの法師とも、屡《しばしば》彼等の話題になつた。その上、どうかすると、彼等は甚《はなはだ》、性質《たち》の悪い悪戯《いたづら》さへする。それを今一々、列記する事は出来ない。が、彼の篠枝《ささえ》の酒を飲んで、後《あと》へ尿《いばり》を入れて置いたと云ふ事を書けば、その外は凡《およそ》、想像される事だらうと思ふ。
しかし、五位はこれらの揶揄《やゆ》に対して、全然無感覚であつた。少くもわき眼には、無感覚であるらしく思はれた。彼は何を云はれても、顔の色さへ変へた事がない。黙つて例の薄い口髭を撫でながら、するだけの事をしてすましてゐる。唯、同僚の悪戯が、嵩《かう》じすぎて、髷《まげ》に紙切れをつけたり、太刀《たち》の鞘《さや》に草履を結びつけたりすると、彼は笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔をして、「いけぬのう、お身たちは。」と云ふ。その顔を見、その声を聞いた者は、誰でも一時或いぢらしさに打たれてしまふ。(彼等にいぢめられるのは、一人、この赤鼻の五位だけではない、彼等の知らない誰かが――多数の誰かが、彼の顔と声とを借りて、彼等の無情を責めてゐる。)――さう云ふ気が、朧《おぼろ》げながら、彼等の心に、一瞬の間、しみこんで来るからである。唯その時の心もちを、何時までも持続ける者は甚少い。その少い中の一人に、或無位の侍があつた。これは丹波《たんば》の国から来た男で、まだ柔かい口髭が、やつと鼻の下に、生えかかつた位の青年である。勿論、この男も始めは皆と一しよに、何の理由もなく、赤鼻の五位を軽蔑《けいべつ》した。所が、或日何かの折に、「いけぬのう、お身たちは」と云ふ声を聞いてからは、どうしても、それが頭を離れない。それ以来、この男の眼にだけは、五位が全く別人として、映るやうになつた。栄養の不足した、血色の悪い、間のぬけた五位の顔にも、世間の迫害にべそを掻いた、「人間」が覗いてゐるからである。この無位の侍には、五位の事を考へる度に、世の中のすべてが急に本来の下等さを露《あらは》すやうに思はれた。さうしてそれと同時に霜げた赤鼻と数へる程の口髭とが何となく一味《いちみ》の慰安を自分の心に伝へてくれるやうに思はれた。……
しかし、それは、唯この男一人に、限つた事である。かう云ふ例外を除けば、五位は、依然として周囲の軽蔑の中に、犬のやうな生活を続けて行かなければならなかつた。第一彼には着物らしい着物が一つもない。青鈍《あをにび》の水干と、同じ色の指貫《さしぬき》とが一つづつあるのが、今ではそれが上白《うはじろ》んで、藍《あゐ》とも紺とも、つかないやうな色に、なつてゐる。水干はそれでも、肩が少し落ちて、丸組の緒や菊綴《きくとぢ》の色が怪しくなつてゐるだけだが、指貫になると、裾のあたりのいたみ方が一通りでない。その指貫の中から、下の袴もはかない、細い足が出てゐるのを見ると、口の悪い同僚でなくとも、痩公卿の車を牽《ひ》いてゐる、痩牛の歩みを見るやうな、みすぼらしい心もちがする。それに佩《は》いてゐる太刀も、頗る覚束《おぼつか》ない物で、柄《つか》の金具も如何《いかが》はしければ、黒鞘の塗も剥げかかつてゐる。これが例の赤鼻で、だらしなく草履をひきずりながら、唯でさへ猫背なのを、一層寒空の下に背ぐくまつて、もの欲しさうに、左右を眺め眺め、きざみ足に歩くのだから、通りがかりの物売りまで莫迦《ばか》にするのも、無理はない。現に、かう云ふ事さへあつた。……
或る日、五位が三条坊門を神泉苑の方へ行く所で、子供が六七人、路ばたに集つて、何かしてゐるのを見た事がある。「こまつぶり」でも、廻してゐるのかと思つて、後ろから覗いて見ると、何処《どこ》かから迷つて来た、尨犬《むくいぬ》の首へ繩をつけて、打つたり殴《たた》いたりしてゐるのであつた。臆病な五位は、これまで何かに同情を寄せる事があつても、あたりへ気を兼ねて、まだ一度もそれを行為に現はしたことがない。が、この時だけは相手が子供だと云ふので、幾分か勇気が出た。そこで出来るだけ、笑顔をつくりながら、年かさらしい子供の肩を叩いて、「もう、堪忍してやりなされ。犬も打たれれば、痛いでのう」と声をかけた。すると、その子供はふりかへりながら、上眼を使つて、蔑《さげ》すむやうに、ぢろぢろ五位の姿を見た。云はば侍所の別当が用の通じない時に、この男を見るやうな顔をして、見たのである。「いらぬ世話はやかれたうもない。」その子供は一足下りながら、高慢な唇を反らせて、かう云つた。「何ぢや、この鼻赤めが。」五位はこの語《ことば》が自分の顔を打つたやうに感じた。が、それは悪態をつかれて、腹が立つたからでは毛頭ない。云はなくともいい事を云つて、恥をかいた自分が、情なくなつたからである。彼は、きまりが悪いのを苦しい笑顔に隠しながら、黙つて、又、神泉苑の方へ歩き出した。後では、子供が、六七人、肩を寄せて、「べつかつかう」をしたり、舌を出したりしてゐる。勿論彼はそんな事を知らない。知つてゐたにしても、それが、この意気地のない五位にとつて、何であらう。……
では、この話の主人公は、唯、軽蔑される為にのみ生れて来た人間で、別に何の希望も持つてゐないかと云ふと、さうでもない。五位は五六年前から芋粥《いもがゆ》と云ふ物に、異常な執着を持つてゐる。芋粥とは山の芋を中に切込んで、それを甘葛《あまづら》の汁で煮た、粥の事を云ふのである。当時はこれが、無上の佳味として、上は万乗《ばんじよう》の君の食膳にさへ、上せられた。従つて、吾五位の如き人間の口へは、年に一度、臨時の客の折にしか、はいらない。その時でさへ、飲めるのは僅に喉《のど》を沾《うるほ》すに足る程の少量である。そこで芋粥を飽きる程飲んで見たいと云ふ事が、久しい前から、彼の唯一の欲望になつてゐた。勿論、彼は、それを誰にも話した事がない。いや彼自身さへそれが、彼の一生を貫いてゐる欲望だとは、明白に意識しなかつた事であらう。が事実は彼がその為に、生きてゐると云つても、差支《さしつかへ》ない程であつた。――人間は、時として、充されるか充されないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまふ。その愚を哂《わら》ふ者は、畢竟《ひつきやう》、人生に対する路傍の人に過ぎない。
しかし、五位が夢想してゐた、「芋粥に飽かむ」事は、存外容易に事実となつて現れた。その始終を書かうと云ふのが、芋粥の話の目的なのである。
――――――――――――――――――
或年の正月二日、基経の第《だい》に、所謂《いはゆる》臨時の客があつた時の事である。(臨時の客は二宮《にぐう》の大饗《だいきやう》と同日に摂政関白家が、大臣以下の上達部《かんだちめ》を招いて催す饗宴で、大饗と別に変りがない。)五位も、外の侍たちにまじつて、その残肴《ざんかう》の相伴《しやうばん》をした。当時はまだ、取食《とりば》みの習慣がなくて、残肴は、その家の侍が一堂に集まつて、食ふ事になつてゐたからである。尤《もつと》も、大饗に等しいと云つても昔の事だから、品数の多い割りに碌な物はない、餅、伏菟《ふと》、蒸鮑《むしあはび》、干鳥《ほしどり》、宇治の氷魚《ひを》、近江《あふみ》の鮒《ふな》、鯛の楚割《すはやり》、鮭の内子《こごもり》、焼蛸《やきだこ》、大海老《おほえび》、大柑子《おほかうじ》、小柑子、橘、串柿などの類《たぐひ》である。唯、その中に、例の芋粥があつた。五位は毎年、この芋粥を楽しみにしてゐる。が、何時も人数が多いので、自分が飲めるのは、いくらもない。それが今年は、特に、少かつた。さうして気のせゐか、何時もより、余程味が好い。そこで、彼は飲んでしまつた後の椀をしげしげと眺めながら、うすい口髭についてゐる滴《しづく》を、掌で拭いて誰に云ふともなく、「何時になつたら、これに飽ける事かのう」と、かう云つた。
「大夫殿は、芋粥に飽かれた事がないさうな。」
五位の語《ことば》が完《をは》らない中に、誰かが、嘲笑《あざわら》つた。錆《さび》のある、鷹揚《おうやう》な、武人らしい声である。五位は、猫背の首を挙げて、臆病らしく、その人の方を見た。声の主は、その頃同じ基経の恪勤《かくごん》になつてゐた、民部卿時長の子藤原|利仁《としひと》である。肩幅の広い、身長《みのたけ》の群を抜いた逞《たくま》しい大男で、これは、ゆでぐりを噛みながら、黒酒《くろき》の杯《さかづき》を重ねてゐた。もう大分酔がまはつてゐるらしい。
「お気の毒な事ぢやの。」利仁は、五位が顔を挙げたのを見ると、軽蔑と憐憫《れんびん》とを一つにしたやうな声で、語を継いだ。「お望みなら、利仁がお飽かせ申さう。」
始終、いぢめられてゐる犬は、たまに肉を貰つても容易によりつかない。五位は、例の笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔をして、利仁の顔と、空《から》の椀とを等分に見比べてゐた。
「おいやかな。」
「……」
「どうぢや。」
「……」
五位は、その中に、衆人の視線が、自分の上に、集まつてゐるのを感じ出した。答へ方一つで、又、一同の嘲弄を、受けなければならない。或は、どう答へても、結局、莫迦《ばか》にされさうな気さへする。彼は躊躇《ちうちよ》した。もし、その時に、相手が、少し面倒臭そうな声で、「おいやなら、たつてとは申すまい」と云はなかつたなら、五位は、何時《いつ》までも、椀と利仁とを、見比べてゐた事であらう。
彼は、それを聞くと、慌《あわただ》しく答へた。
「いや……忝《かたじけな》うござる。」
この問答を聞いてゐた者は、皆、一時に、失笑した。「いや……忝うござる。」――かう云つて、五位の答を、真似る者さへある。所謂、橙黄橘紅《とうくわうきつこう》を盛つた窪坏《くぼつき》や高坏の上に多くの揉《もみ》烏帽子や立《たて》烏帽子が、笑声と共に一しきり、波のやうに動いた。中でも、最《もつとも》、大きな声で、機嫌よく、笑つたのは、利仁自身である。
「では、その中に、御誘ひ申さう。」さう云ひながら、彼は、ちよいと顔をしかめた。こみ上げて来る笑と今飲んだ酒とが、喉で一つになつたからである。「……しかと、よろしいな。」
「忝うござる。」
五位は赤くなつて、吃《ども》りながら、又、前の答を繰返した。一同が今度も、笑つたのは、云ふまでもない。それが云はせたさに、わざわざ念を押した当の利仁に至つては、前よりも一層|可笑《をか》しさうに広い肩をゆすつて、哄笑《こうせう》した。この朔北《さくほく》の野人は、生活の方法を二つしか心得てゐない。一つは酒を飲む事で、他の一つは笑ふ事である。
しかし幸《さいはひ》に談話の中心は、程なく、この二人を離れてしまつた。これは事によると、外の連中が、たとひ嘲弄にしろ、一同の注意をこの赤鼻の五位に集中させるのが、不快だつたからかも知れない。兎に角、談柄《だんぺい》はそれからそれへと移つて、酒も肴《さかな》も残少《のこりずくな》になつた時分には、某《なにがし》と云ふ侍|学生《がくしやう》が、行縢《むかばき》の片皮へ、両足を入れて馬に乗らうとした話が、一座の興味を集めてゐた。が、五位だけは、まるで外の話が聞えないらしい。恐らく芋粥の二字が、彼のすべての思量を支配してゐるからであらう。前に雉子《きぎす》の炙《や》いたのがあつても、箸をつけない。黒酒の杯があつても、口を触れない。彼は、唯、両手を膝の上に置いて、見合ひをする娘のやうに霜に犯されかかつた鬢《びん》の辺まで、初心《うぶ》らしく上気しながら、何時までも空になつた黒塗の椀を見つめて、多愛もなく、微笑してゐるのである。……
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それから、四五日たつた日の午前、加茂川の河原に沿つて、粟田口《あはたぐち》へ通ふ街道を、静に馬を進めてゆく二人の男があつた。一人は濃い縹《はなだ》の狩衣《かりぎぬ》に同じ色の袴をして、打出《うちで》の太刀を佩《は》いた「鬚黒く鬢《びん》ぐきよき」男である。もう一人は、みすぼらしい青鈍《あをにび》の水干に、薄綿の衣《きぬ》を二つばかり重ねて着た、四十恰好の侍で、これは、帯のむすび方のだらしのない容子《ようす》と云ひ、赤鼻でしかも穴のあたりが、洟《はな》にぬれてゐる容子と云ひ、身のまはり万端のみすぼらしい事|夥《おびただ》しい。尤も、馬は二人とも、前のは月毛《つきげ》、後のは蘆毛《あしげ》の三歳駒で、道をゆく物売りや侍も、振向いて見る程の駿足である。その後から又二人、馬の歩みに遅れまいとして随《つ》いて行くのは、調度掛と舎人《とねり》とに相違ない。――これが、利仁と五位との一行である事は、わざわざ、ここに断るまでもない話であらう。
冬とは云ひながら、物静に晴れた日で、白けた河原の石の間、潺湲《せんくわん》たる水の辺《ほとり》に立枯れてゐる蓬《よもぎ》の葉を、ゆする程の風もない。川に臨んだ背の低い柳は、葉のない枝に飴《あめ》の如く滑かな日の光りをうけて、梢《こずゑ》にゐる鶺鴒《せきれい》の尾を動かすのさへ、鮮かに、それと、影を街道に落してゐる。東山の暗い緑の上に、霜に焦げた天鵞絨《びろうど》のやうな肩を、丸々と出してゐるのは、大方、比叡《ひえい》の山であらう。二人はその中に鞍《くら》の螺鈿《らでん》を、まばゆく日にきらめかせながら鞭をも加へず悠々と、粟田口を指して行くのである。
「どこでござるかな、手前をつれて行つて、やらうと仰せられるのは。」五位が馴れない手に手綱をかいくりながら、云つた。
「すぐ、そこぢや。お案じになる程遠くはない。」
「すると、粟田口辺でござるかな。」
「まづ、さう思はれたがよろしからう。」
利仁は今朝五位を誘ふのに、東山の近くに湯の湧いてゐる所があるから、そこへ行かうと云つて出て来たのである。赤鼻の五位は、それを真《ま》にうけた。久しく湯にはいらないので、体中がこの間からむづ痒《がゆ》い。芋粥の馳走になつた上に、入湯が出来れば、願つてもない仕合せである。かう思つて、予《あらかじ》め利仁が牽かせて来た、蘆毛の馬に跨《またが》つた。所が、轡《くつわ》を並べて此処まで来て見ると、どうも利仁はこの近所へ来るつもりではないらしい。現に、さうかうしてゐる中に、粟田口は通りすぎた。
「粟田口では、ござらぬのう。」
「いかにも、もそつと、あなたでな。」
利仁は、微笑を含みながら、わざと、五位の顔を見ないやうにして、静に馬を歩ませてゐる。両側の人家は、次第に稀になつて、今は、広々とした冬田の上に、餌をあさる鴉《からす》が見えるばかり、山の陰に消残つて、雪の色も仄《ほのか》に青く煙つてゐる。晴れながら、とげとげしい櫨《はじ》の梢が、眼に痛く空を刺してゐるのさへ、何となく肌寒い。
「では、山科《やましな》辺ででもござるかな。」
「山科は、これぢや。もそつと、さきでござるよ。」
成程、さう云ふ中に、山科も通りすぎた。それ所ではない。何かとする中に、関山も後にして、彼是《かれこれ》、午《ひる》少しすぎた時分には、とうとう三井寺の前へ来た。三井寺には、利仁の懇意にしてゐる僧がある。二人はその僧を訪ねて、午餐《ひるげ》の馳走になつた。それがすむと、又、馬に乗つて、途を急ぐ。行手は今まで来た路に比べると遙に人煙が少ない。殊に当時は盗賊が四方に横行した、物騒な時代である。――五位は猫背を一層低くしながら、利仁の顔を見上げるやうにして訊ねた。