ドラゴンの運命 - Морган Райс 3 стр.


「瓶を離せ」ブラントが命令する。

バーテンダーが言われたとおりにすると、瓶が床に落ちて割れた。

エレックが金属音を響かせて剣を抜き、床でうなっている宿屋の主人のところに歩み寄ると、剣を喉に突き付けた。

「一度だけしか言わない。」エレックが言った。「この者たちを店からすべて退去させなさい。今すぐにだ。あの女性と二人きりにしてほしい」

「大公だ!」誰かが叫んだ。

全員が振り向き、やっと、家来たちに囲まれて入口のそばに立っている大公の存在に気付いた。皆が帽子を取り、お辞儀をした。

「私が話を終えるまでに店を空にしないと」大公が告げた。「全員を直ちに投獄する」

店内が狂乱状態になり、男たち全員が店を明け渡す大公のそばを通り過ぎ、正面のドアから外に出ようとした。飲みかけのエールの瓶もそのままだった。

「お前もだ」ブラントはバーテンダーに向かってそう言うと、短剣を下げ、彼の髪をつかんでドアのほうへ押しやった。

ほんの少し前まで騒々しかった店内が、今はエレック、ブラント、大公と数十名の側近たちを除いて誰もいなくなり、静かになった。背後で音を立てて扉を閉めた。

エレックは床に座って今もぼう然と鼻の血をぬぐっている宿屋の主人に向き直った。 エレックは彼のシャツをつかみ、両手で彼を立ち上がらせて、空いたベンチの一つに座らせた。

「今夜一晩の商売をあんたは台無しにしたな。」主人は哀れな声を出した。「このつけは払ってもらうよ」

大公が歩み出て彼を手の甲で叩いた。

「この方に手を出そうものなら、お前を死刑に処することもできるのだぞ。」大公が厳しく言った。「この方がどなたか存じ上げないのか?国王の最高の騎士、シルバーのチャンピオン、エレック様だぞ。その気になれば、この方がお前を今この場で殺すこともできる」

宿屋の主人はエレックを見上げ、初めて本当の恐怖が彼の顔をよぎった。座ったまま震えそうだった。

「まったく存じ上げませんでした。あなた様がおっしゃいませんでしたので」

「彼女はどこだ?」エレックがもどかしげに尋ねた。

「奥で台所の掃除をしております。あの娘とお会いになりたいっていうのは一体どういうことなんで?何かあなた様のものを盗んだりしたんでしょうか?あの娘はただの年季奉公の召使ですが」

エレックは短剣を抜き、男の喉に突き付けた。

「彼女を今度召使と呼んだら」エレックが警告する。「私がお前の喉をかき切るぞ。わかったな?」男の皮膚に刃を当てながらエレックがきつく言った。

男は目に涙をためて、ゆっくりと頷いた。

「彼女をここに連れて来なさい。急いで」エレックはそう命じ、彼を引っ張って立ち上がらせ、体を押した。男は店内へ、そして奥の扉へと飛ばされた。

宿屋の主人が行ってしまうと、扉の向こう側から鍋のぶつかる音や抑えた怒鳴り声が聞こえた。その後すぐに扉が開き、数人の女性たちが出てきた。皆、台所の油だらけのぼろ布のドレスやスモックを身に着け、帽子をかぶっている。 六十代の年配の女性が三人いた。エレックは、自分が誰のことを言っているのかこの男はわかっているのだろうか、といぶかった。

その時、彼女が出てきた。エレックは心臓が止まりそうだった。

息ができないほどだった。この女性だ。

油のしみがついたエプロンを着け、目を上げるのが恥ずかしい様子で顔を下に向けたままだ。髪は結んで布で覆っている。頬には泥がこびりついているが、それでもエレックは彼女にぞっこんだった。皮膚は若々しく完璧な美しさで、頬が高く、顎も彫刻のようだ。鼻にはそばかすがあり、唇が厚い。額は広く、威厳がある。そして美しいブロンドの髪が帽子からあふれ出ていた。

目を上げて一瞬だけ彼の方を見た。大きな、美しいアーモンド形の緑色の瞳は光で、澄んだ青へと変化し、またもとの色へ戻った。エレックはその場にくぎ付けになった。最初に会った時よりも一層心を奪われていることに自分でも驚いた。

彼女の後ろでは、宿屋の主人が鼻の血を今も拭いながら、しかめっ面で出てきた。少女は年配の女性たちに囲まれて、エレックのほうに向かい恐る恐る前に進み出た。近くまで来ると膝を曲げてお辞儀した。エレックは身を起して少女の前に立ち、大公の側近たちもそれに従った。

「ご主人様」少女は優しく、穏やかな声をそう言い、エレックの心を満たした。「私がなぜご機嫌を損ねてしまったのかお教えください。自分ではわかりませんが、大公閣下のお屋敷に行くために私のしたことが何であれ、申し訳ございませんでした」

エレックは微笑んだ。彼女の言葉づかい、声、どれも気分を回復させるような気がした。話すのをやめてほしくなかった。

エレックは手を伸ばして彼女の顎に触れ、その優しい目が自分の目と合うよう顔を上げさせた。その目に見入ると彼の心臓は高鳴った。まるで海の青さに溺れてしまうようだった。

「あなたは怒らせるようなことは何もしていません。あなたには人を怒らせるようなことはできないと思います。ここへは怒りではなく、あなたを思う気持ちのために来ました。あなたに会った時から、他のことが考えられなくなってしまいました」

少女は狼狽して、瞬きを何度もしながらすぐに目を床に落としてしまった。手をねじり、圧倒され緊張した様子だった。このようなことに慣れていないのが明らかだ。

「お願いです、教えてください。あなたのお名前は何と言うのですか?」

「アリステアです」少女はつつましく答えた。

「アリステア」エレックは感動しながら繰り返した。これまで聞いたなかで最も美しい名前だと思った。

「ですが、なぜそんなことをお知りになりたいのかわかりません」彼女が床を見つめながら小さな声で聞いた。「あなた様は貴族でいらっしゃいますが、私はただの召使です」

「正確に言うと、その娘は私の召使だ」宿屋の主人は進み出て意地悪くそう言った。「私のところに年季奉公に入ったんですよ。何年か前に契約を交わしました。約束は7年です。それと引き換えに、私が食べ物と住む場所を世話してやっているんです。3年目に入ったところですよ。ですから、こんなこと全部時間の無駄です。この娘は私のものです。私の所有です。連れて行くことなんかできませんよ。おわかりいただけましたか?」

エレックはこれほど人を憎んだことはないくらい、この宿屋の主人に対して憎しみを抱いた。剣を抜き、心臓を突き刺して始末してしまいたい思いがよぎった。だが、いかにそうされて当然の男であっても、エレックは王の法律を破る気にはなれなかった。自分の行動は国王に影響を及ぼすからだ。

「王の法律は王の法律だ」エレックは毅然として男に言った。「それを破ろうとは思わない。それだけは伝えた。明日はトーナメントが始まる。私は他の男と同じく、花嫁を選ぶ権利がある。ここで今、私がアリステアを選ぶことを知らせておく」

部屋中に息を呑む声が広がった。皆が衝撃に互いの顔を見合わせた。

「それは」エレックが付け加えて言った。「彼女が承諾すればだが」

エレックはアリステアがずっと下を向いたままなのを見て、胸が高鳴った。彼女の頬が赤らんでいるのがわかった。

「承諾してくださいますか?」エレックが尋ねた。

店内が静まり返った。

「ご主人様」彼女が静かに言った。「あなた様は私が誰なのか、どこから来たのか、何もご存じありません。そして、私はそうしたことをお話しできないのです」

エレックが不思議そうな顔をして見つめ返した。

「なぜ話せないのですか?」

「ここへ到着してから誰にも話しておりません。私は誓いを立てたのです」

「それは一体なぜなのですか?」エレックは興味をそそられ、問いただした。

アリステアは黙って下を見ているだけだった。

「それは本当です」女中の一人が口を差し挟んだ。「この人は自分が誰なのか話したことがないんですよ。なぜここにいるのかも。話すのを拒むんです。何年も聞こうとしているんですがね」

エレックは非常に不可解な気がした。だが彼女の神秘性が一層深まっただけだった。

「今、誰だかわからないのであれば、知らなくてよいです」エレックが言った。「私はあなたの誓いを尊重します。ですが、そのことで私の気持ちが変わることはありません。あなたが誰であろうと、このトーナメントに勝った時は私はあなたを選びます。王国中のすべての女性のうちからあなたをです。もう一度伺います。受けてくださいますか?」

アリステアは床に目を落としたままだった。そしてエレックの目の前で、彼女の頬を涙が伝った。

突然、アリステアは振り向いて部屋から走って出て行き、背後の扉を閉めた。

エレックは他の者たちともども、驚きに言葉をなくして立ちすくんだ。彼女の反応をどう解釈したらよいのかわからなかった。

「これであなた様も私も時間を無駄にしたことがわかりましたね。」宿屋の主人が言った。「あの娘はノーと言った。ですからもう出て行ってくださいよ」

エレックはしかめっ面を返した。

「ノーと言ったわけじゃない」ブラントが口をはさんだ。「返事をしなかっただけだ」

「時間をかける権利がある」エレックは彼女を弁護した。「考えるべきことはたくさんあるのだから。私のことも知らないわけだし」

エレックは何をすべきか、その場で熟考した。

「私は今晩ここに泊まることにする。」エレックは最終的にそう言った。「ここに部屋を取ってくれ。彼女の部屋から離れた廊下の奥に。朝になったら、トーナメント前にもう一度尋ねる。もし承諾してくれれば、そして私が勝てば、彼女は私の花嫁になる。もしそうなれば、奉公人の身請けをする。彼女は私と共にここを離れることになろう」

宿屋の主人が自分の宿にエレックを泊めたくないのは明らかだったが、何も言おうとはしなかった。振り返って扉を後ろ手に閉め、急ぎ足で出て行った。

「ここにお泊りになるというのは確かなのですか?」大公が尋ねた。「私どもと共に城に戻りましょう」

エレックは重々しく頷き返した。

「これまでで、これほど本気になったことはありません」

第八章

ソアは宙を飛んで落下し、火の海の荒れ狂う波間に頭からすごい勢いで落ちた。水面下に入って海水に浸かると、その熱さに驚いた。

水面下でソアは短い間だけ目を開け、そうしなければ良かったと思った。不気味な顔をした、奇妙で醜いあらゆる海の生き物たちを一瞬目にした。この海には生き物が溢れている。安全なボートに戻るまで、それらが攻撃してこないことを祈った。

ソアはあえぎながら水面に顔を出し、すぐに溺れている少年を探した。ぎりぎり間に合って彼を見つけることができた。ばたばたと腕を振り回しながら沈もうとしていた。あと数秒で本当に溺れるところだった。

ソアは手を伸ばして少年の首を後ろからつかみ、顔を水面から出して一緒に泳ぎ始めた。ソアはすすり泣く声を聞き、振り返ると、そこにクローンがいるのを見て驚いた。自分の後を追って飛び込んだに違いない。自分の隣で泳ぎ、哀れな声を出しながら水をかいてソアに近づいてくる。クローンが危険にさらされているのを見て彼は気が滅入った。だが手がふさがっていて、なすすべがない。

奇妙な生き物たちが周りで顔を出しては引っ込める、赤く渦巻く水中にあって、ソアは周囲をなるべく見ないようにしていた。4本の腕と2つの頭部を持つ紫色の醜い生き物が近くで顔を出し、ソアに向かって鋭い声を上げると、潜って行った。ソアは縮み上がった。

振り向くと20ヤードほど先にボートが見えた。少年を引っ張りながら、片腕と両足を使って必死にボートに向かって泳いだ。少年は叫びながらばたばたともがき、ソアは自分も一緒に沈んでしまうのでは、と恐れた。

「じっとして!」ソアは少年が聞いてくれることを願いながら大声で言った。

やっと聞き届けてくれたのでソアがほっとしたのもつかの間、水しぶきが聞こえたため反対側を向くと、すぐ右に別の生き物が顔を出していた。黄色く、四角い頭と4本の足を持つ、小さな生き物だ。うなり、震えながらソアめがけて泳いでくる。海に棲むガラガラヘビのように見えた。頭は四角い。近づくにつれ、ソアはかまれることを覚悟し、緊張した。だが、生き物は突然口を大きく開け、彼に向かって海水を吐き出した。 ソアは目から水を出そうと瞬きした。

生き物は二人の周りをぐるぐると泳ぎ続ける。ソアはもっと速く泳いで逃げようと頑張った。

ボートに向かって進み、近づいてきたところで、反対側にまた別の生き物が現れた。細長く、オレンジ色で、口元にはさみが2つ、小さな脚が数十本ある。長い尾をあらゆる方向に鞭のように動かしていた。直立のロブスターのように見える。水生昆虫のように、水際に沿ってすそを広げ、ブンブンと音を立ててソアに近づいてくる。横を向いては尾を鞭のように動かし、ソアの腕に当たって、刺すような痛みにソアは悲鳴を上げた。

生き物は音を立てて行っては戻り、何度も何度も鞭打ってくる。ソアは剣を抜いて攻撃できることを願ったが、片手しか空いていない。そしてそれは泳ぐのに必要だった。

すぐそばを泳いでいたクローンが振り向いて生き物にうなった。毛が逆立つような声だった。クローンは恐れることなく泳いでいき、威嚇した。生き物は水中に退散した。ソアはほっとして息をついた。だが、突然生き物はソアの反対側に再び現れ、彼を鞭打った。クローンが追い回し、噛みついて捕まえようとしたが、そのたびに逃してしまう。

ソアは賢明に泳いだ。この状況から脱するには、海から上がるしかない。永遠に続くかと思えるほど長く、これほどの力を込めたことはないほど賢明に泳ぎ、波で大きく揺れるボートに近づいた。その間、リージョンの年長の少年たちが二人、彼を助けようと待っていてくれた。自分やクラスメートたちが話したことさえなかったメンバーだ。屈んで彼のほうへ手を差し伸べてくれた。

ソアは少年をボートに向かって持ち上げ、先に助けた。少年たちが彼の腕を抱え、引き上げた。

ソアは次に手を伸ばしてクローンの腹部を持ち、海上からボートに放り上げた。クローンは大声を上げ、ずぶ濡れで震えながら、木製のボートの上で四肢を使ってひっかいたり滑ったりした。ボートの端から端まで、濡れた床の上を滑って行った。そして素早く立ち上がり、向きを変えると船のへりに走り寄り、ソアを探した。海を見下ろしながら甲高く叫んだ。

ソアは手を伸ばして少年たちの一人の手をつかんだ。正にボートに乗り込もうとしていたその時、突然何か力強い筋肉のようなものが足首と腿をつかむのを感じた。振り向いて見下ろすと、ライムグリーン色をしたイカのような生き物が自分の脚に足を巻き付けているのが見え、心臓が凍り付いた。

針が肉に刺さるのを感じ、痛みに悲鳴を上げた。

何か素早く行動を起こさないと終わりだ、とソアは思った。空いたほうの手でベルトに手を伸ばし、短剣を抜いて屈み込んで切りつけた。だが生き物の足は肉厚で、短剣では刺すことさえできない。

これが相手を怒らせた。生き物は、緑色で目がなく、長い首の上に重なり合った二重の顎を持つ頭部を突然現わした。そしてカミソリのように鋭い歯をむき出してソアのほうへ乗り出した。ソアは脚から血の気が失せていくのを感じ、すぐになんとかしなければと悟った。年長の少年たちが必死に自分をつかんでいてくれようとするのだが、ソアの手は滑り、海に落ちようとしていた。

クローンが甲高い声を上げ続ける。毛が逆立ち、今にも海に飛び込みそうなくらい乗り出している。だが、クローンでさえこの生き物に攻撃しても無意味だとわかっていたに違いない。

年長の少年たちの一人が前に出て叫んだ。

「頭を下げろ!」

ソアが頭を引っ込めた時、少年が槍を投げた。音を立てて宙を飛んだが、的を外れ、敵を傷つけることなく海に沈んだ。生き物はひどく痩せていて、またすばしこかった。

突然、クローンがボートから海に飛び込んだ。口を開けたまま生き物に着地し、その鋭い歯で首の後ろ側に噛みついた。クローンはしっかりと噛みついたまま、生き物を左右に揺らし、決して離さない。

だが、この戦いに勝ち目はなかった。生き物の皮膚は非常に硬く、肉も厚かった。相手はクローンを振り回し、海に放り投げた。その間、ソアの脚をつかむ力を強めた。まるで万力のようだった。ソアは酸素が不足してきているのを感じた。生き物の足は焼けるようで、脚が体から引き裂かれるのではと思った。

最後に必死の努力で、ソアは少年の手を離したのと同時に、揺れながらベルトの短刀に手をかけた。

だが、それをつかむのが遅すぎた。滑って体が回転し、海中に頭から落ちた。

ソアはボートから遠く引き離されていくのを感じた。生き物が自分を海へと引きずっていく。後ろに引っ張られ、そのスピードが増していく。力なく手を伸ばしてもボートは目の前から消えて行った。最後に気付いたのはそして水面から下へ、火の海の底に向かって引きずられていくのを感じたことだった。

第九章

グウェンドリンは父のマッギル王の横で、広い草原を走っていた。まだ小さく、10歳ぐらいだろうか、そして父もまだかなり若い。顎ひげは短く、後に出てくる白髪も見当たらない。皮膚にはしわがなく、若々しく輝いている。娘の手を取り、野を駆け巡りながら、彼は幸せで心配事もなく、思い切り笑っていた。これが彼女の知る、彼女が覚えている父である。

彼は娘を抱き上げて肩にかつぎ上げ、何度も回した。笑い声が大きくなり、グウェンは興奮して笑い続ける。父の腕の中でグウェンは安心感に包まれていた。父と一緒の時が永遠に続くことを願った。

だが、父が彼女を降ろした時、不思議なことが起きた。太陽が降り注ぐ午後が、突然たそがれ時に変わった。グウェンが地面に足をつけた瞬間、二人は花咲く草原ではなく泥の中にいた。足首までつかって。父は今、彼女の足下から数フィート先の土の中に仰向けに横たわっている。年を経て、ずっと年取って。年を取り過ぎて。そして動けなくなっている。もっと遠くには、土の中に彼の王冠が輝いている。

「グウェンドリンや」喘ぎながら言った。「娘よ、助けておくれ」

泥から手を上げて、必死に彼女に手を伸ばした。

グウェンは父を助けたい衝動に駆られ、父のもとへ行き、手をつかもうとした。しかし、彼女の足は動かない。見下ろすと、泥が自分の周りで固まっていくのが見えた。乾いてひび割れている。壊して足を自由にしようと何度も動いてみた。

グウェンは瞬きをした。彼女は宮廷の胸壁の上に立ち、宮廷を見下ろしている。何かおかしい。下には普段の輝きも祝いの催しも見当たらない。墓地が広がっているだけだ。かつて輝くばかりの宮廷が存在した場所には、今や見渡す限り、新しく建てられた墓地が広がっている。

足音が聞こえた。振り返ると黒いマントと頭巾を着けた暗殺者が自分に近づいてくるのが見え、彼女の心臓は止まりそうだった。片目を失くし、眼窩にギザギザの分厚い傷を持つ不気味な顔を頭巾を取って見せながら、こちらに向かって疾走してくる。唸りながら片手を上げ、柄が赤く輝く、きらめく短剣を振り上げている。

その動きはあまりに速く、グウェンの動きは間に合わなかった。彼が短剣を思い切り振りおろした時、彼女は殺されると思い、屈んだ。

突然それが、顔の数インチ手前で止まった。目を開けると、父の遺体が立って男の手首を宙でつかんでいるのが見えた。父は男が短剣を落とすまでその手をねじり、男を肩の上に持ち上げると、胸壁から投げ落とした。グウェンは男が端から落ちて行くときの悲鳴を聞いた。

父は振り向いて彼女を見つめた。そして娘の肩をその腐敗しつつある手でしっかりとつかみ、厳しい表情を見せた。

「ここはお前にとって安全な場所ではない」父が警告した。「安全ではないのだ!」父は叫んだ。その手は埋まるほど彼女の肩をきつくつかみ、グウェンが悲鳴を上げた。

グウェンは叫びながら目を覚ました。ベッドに身を起こし、襲撃者がいるのでは、と部屋の中を見回した。

だが、そこにあるのは沈黙だけだった。夜明け前の重苦しい静けさだ。

汗をかき、荒い息で彼女はベッドから飛び降りた。レースの夜着をまとい、室内を歩いた。小さな、石造りの洗面台に行き、何度も顔を洗った。壁にもたれかかり、暑い夏の朝に裸足で冷たい石の感触を味わいながら、心を鎮めようとした。

夢はあまりにも現実的だった。ただの夢ではないと感じた。父からの警告、メッセージであったと。宮廷を離れる切迫した必要を感じた。今すぐに経ち、二度と戻らない。

それが不可能だということはわかっていた。よい考えが浮かぶよう、気持ちを静めなくてはならない。しかし、瞬きをするたびに父の顔が目に浮かび、父の警告を感じるのだった。夢のことを忘れるため何かしなくては。

グウェンが外を見やると、最初の太陽がちょうど昇るところだった。平静を取り戻すことのできる唯一の場所を思いついた。王の川。そうだ、行かなくては。


*


グウェンドリンは、凍るように冷たい王の川の泉に、鼻をつまみ、水中に頭を沈め、何度も浸かった。上流の泉にひっそりとたたずむ、岩が削られてできた小さな天然のプールに腰を下ろした。子供のころに見つけ、よく通った場所だ。しばらく水の中に頭を沈めたままで過ごした。髪や頭に冷たい水の流れを、何も身に着けていない身体が洗い清められるのを感じた。

ある日グウェンが見つけたこの人里離れた場所は、高い山中にあって木立に遮られた小さな平地で、ここでは川の流れが緩やかになり、深く静かな水たまりを形作っていた。 上からは川の水が滴り落ちてきて、下に少しずつ流れていくのだが、この平地にわずかの流れが留まるのだった。水たまりは深く、岩は滑らかだった。奥まった場所のため、裸でも思い切り水浴びを楽しむことができた。夏には、夜明けに心を清らかにするため、毎朝のようにここに来たものだった。今までにもよくあったが、悪夢がまとわりつく今日のような日は特に、彼女が唯一慰められる場所だった。

グウェンには、あれがただの夢だったのか、それともそれ以上のものなのかわからなかった。夢がメッセージや前兆となる時、どうしてそうだと彼女にわかるだろう?自分の心がいたずらをしているだけなのか、それとも行動を起こすチャンスを与えられたのか、どうしたらわかるのか?

グウェンドリンは起き上がり、あたたかな夏の朝の空気を吸い、周囲の木々に止まった小鳥たちのさえずりを聞いた。水中の天然の岩棚に座って、首まで水につかりながら後ろの岩にもたれかかって考えた。手ですくった水を顔にかけ、それからストロベリー色の長い髪に手を滑らせた。澄み切った水の表面に、空や既に昇りかかった二つ目の太陽、水の上で弧を描いている木々、そして自分の顔が映っているのが見えた。水に映し出された青く輝くアーモンド形の目が、波打ちながら自分の姿を見返していた。その中にグウェンは父の面影を見ることができた。目をそらし、また夢のことを考えた。

父の暗殺があった宮廷に留まるのは危険だと自分でもわかっている。スパイたち、陰謀、そして特に国王がガレスとあっては。兄は予測がつかない。執念深く、偏執狂のようだ。そして非常に嫉妬深い。誰もかも脅威とみなす。特に自分のことを。どんなことでも起こりかねない。ここにいたら自分は安全ではないとわかっていた。誰にとってもそうだ。

だが、彼女は逃げ出すような人間ではなかった。父を殺した者が誰なのか、確実に知る必要があった。もしそれがガレスなら、彼を罰するまでは逃げることなどできなかった。グウェンは、犯人が誰であれ捕まるまで父の魂が安らかに眠ることができないのを知っていた。父は一生涯、正義を呼び掛けていた。他の誰でもない父こそ、その死において正義が行われるにふさわしい。

グウェンは、ゴドフリーと一緒にステッフェンに会ったことを再び思い起こした。彼が何か隠していることを確信し、それが何なのか考えた。プライベートの時間になら明かしてくれるかも知れないという気がしていた。 でももしそうしてくれなかったら?グウェンは父の殺人者を早く見つけなければと焦っていたが、他にどこを当たればよいのか見当がつかなかった。

グウェンドリンは水中の腰かけから立ち上がり、裸のまま岸に上がり、朝の空気に震えながら木の陰に隠れた。そしていつも通り、枝にかけてあるタオルを取ろうと手を伸ばした。

だが、その時タオルがないことに気付き、ショックを受けた。裸で濡れたまま、訳がわからずにいた。いつもと同じようにそこにタオルをかけたのは確かだった。

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